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宇和島伊達藩(前期)

宇和島城.JPG 2代藩主・宗利は、1657年に襲封する。64年、藤堂高虎が築いた板嶋丸串城に破損が目立つので、層塔型の天守に建て替えることとし、71年に完成した。現存する破風のある三層三階の天守閣はこのときのもので、名前も宇和島城と改めた。(写真)
 66年には、基礎とした石垣のうえに櫓を渡す構造の追手門も完成したが、1945年の太平洋戦争時の空襲において焼失した。

 66年、領域が高潮に襲われ、田畠が甚大な被害を受けた。これを機に百姓が保有する田畠の不均等を均すためとして、70~73年に鬮持(くじもち)制と呼ぶ割地制度を実施する。伊予国では、松山・今治・宇和島・吉田の4藩で割地制度を採用するが、藩により制度の内容は少しずつ異なるようだ。
 宇和島藩の場合は、改めて検地を行い、そのときに地味の良し悪しや水利の便を勘案し、田畠ごとに等級を付ける。それをもとにいくつかの田畠を組み合わせて、土地生産性が均等になるような鬮(くじ)単位をつくる。村内の百姓数などを勘案し、必要となる単位数の田畠を用意する。
 これをクジ引きにより、百姓の間で配分し、このとき一鬮分の田畠が与えられる農民を本百姓、半鬮分を半百姓、1/4鬮分を四半百姓と呼んだ。5年に一度、割り替えを行うことで、各百姓は5年ごとに耕す田畠が異なうことになるが、百姓の間において土地生産性が平等になる。この制度が宇和島藩では70年間続いた。

 殖産面では、山間部において早くから楮(コウゾ)を原料とする仙貨紙や半紙が生産されていることに着目し、81年に原料楮の購入資金を藩が貸し付ける制度を設けた。88年には専売制を導入し、領内の紙問屋を公儀問屋として運上銀を取り立てる。専売制にすると藩が税を取り立てるのは容易になるが、反面、生産者の増産意欲を減退させるから、これ以降の藩政は専売制と自由販売の間で変更を繰り返す。
 宗利の男子はいずれも夭折した(これも山家清兵衛の祟りとされた)ので、仙台藩から伊達綱宗の三男を娘婿として迎えた。宗利は在職36年にして93年に隠居し、1708年に75歳で卒した。

 3代藩主・宗贇(むねよし)が、1693年に襲封する。宇和島吉田藩へ3万石を分与して禄高が7万石に減少したのを、格式を維持し体面を保つためとして、10万石への「高直し(たかなおし)」を企図する。新しく開発した田畠を編入したり、検地竿を変更したりによって、領内で3万石相当を生み出し、96年に幕府に認められた。
 ただし格式が上ると、何かと出費が増える。1704年に江戸の湯島聖堂の造営を命じられ、19年には江戸赤坂溜池の堀浚いの幕命を受けた。くわえて07年には、台風と宝永地震による高潮により、甚大な被害を受ける。無数の家屋が損壊し、流失田畠は3万石弱に達して、参勤交代の1年延期が認められた。

 財政再建について、それまでも大坂市場に生魚・塩魚・干鰯などの水産物を出荷していたが、新浦における鰯網漁を開発し、収穫高の1/5に相当する役銀を徴収した。全国的に綿作が普及し、肥料とする干鰯の需要が増大したことに応えたもの。併せて山方の木製品にも1/10の役銀を課し、商人からの借銀を増やした。
 かたがた新田開発を進めた。平地の少ない宇和島では、山腹を段々畑(棚田)が覆う光景が生まれ、現在において景観の妙とされている。
 1711年、宗贇は47歳で卒する。兄らが早世したので、前年に三男が世嗣になっていた。
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