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宇和島伊達藩(中期)

 4代藩主・村年は、1711年に6歳で、家督を相続する。21年に初めて御国入りし、山奉行に植林・植樹を命じる。30年、幕府の藩札解禁の方針により、藩札を発行する。31年、中世城郭のひとつの鎌江城址に、和霊神社の新社殿の造営を始め、4年後に完成した。
 1732年、全国で12000人の餓死者が出たとされる「享保の大飢饉」に際会する。伊予は連年の長雨被害があったところにウンカの虫害に襲われ、「伊予八藩」のうち小松・今治・松山・大洲・新谷・吉田の六藩は幕府に「稲作皆無」と報告し、残る宇和島・西条の二藩も作柄を8割減と報告した。
 稲作以外の被害もあるから宇和島の藩収は例年の1割程度にとどまった。幕府から1万両の貸付と1,500石余の廻米を受け、藩が手持ちの米麦を加えて、領内に放出した。藩人口9.5万人のうち、32年夏の飢人は5.7万人に達したが、餓死者は皆無であったという。33年、家臣の半知借上(半分に減封)を断行した。
 藩政改革に取り組むべきところ、村年(31歳)は参勤交代からの下向の途次、播磨の加古川で腹痛と発熱を患い急逝した。宇和島藩5代藩主・伊達村候 宇和島市立伊達博物館.jpeg

 5代藩主・村候(むらとき)は村年の長男で、1735年に11歳(13歳とも)で襲封する(写真;宇和島伊達文化保存会蔵)。
 藩主の入部前から、70年間実施してきた農地の鬮持制の存廃が議論になっており、36~43年の間に順次廃止した。割地を行う経費と手間が多大であるうえに、庄屋筋からは生産力増強のため、廃止すべきとの意見が出される。農民の階層分化により、土地の譲渡や質入れの動きが高まり、土地移動の自由を認めざるを得ない。こうした情況下では、もはや割地制度を実施できず、大土地所有が進むことになる。

 村候は43年に入部し、士風刷新のため、家臣に「25カ条の定」を示す。忠孝・学問・武芸を奨励し、風紀を正すため徒党・博打・好色を禁止し、家計を節約し、軍制を強化するなどを内容とした。
 45年には「享保の大飢饉」から立ち直るため、7年間の倹約・奢侈の禁止・風俗の矯正を命じ、かたがた藩士の借金帳消しや未進貢租の免除を認めた。
 殖産面では、唐櫨(カラハゼ)の種子を領内に配布して栽培を奨励し、寛保年間(1741-44年)以降に木蝋の生産が広がる。47年に製紙とともに製蝋を統制下におき、この2業種を藩の殖産策の中心に置いた。54年、3名の商人に晒(さら)し蠟と蠟燭(ろうそく)の製造を認可し、生産を加速させた。81年には12の青蝋座を設けて運上金を取り立てた。(1857年に蝋座からの運上金は144両余+銀札19貫余に達し、藩が軍備を進めるうえで重要な財源になる)
 1753~55年に郡役所に吟味役を新設し、行政を正して農政改革に取り組む。57年には、仙貨紙・半紙の専売制を復活した。漁業では鰯舟引き網漁を保護奨励し、漁獲量の増加に努めた。

 48年、藩校の内徳館を開き、有力学者を招聘した。66年、諸子教育の基本方針として武芸鍛錬の重要性を説き、士風刷新を唱える“壁書き”を残した。山家清兵衛を尊敬追慕し、和霊神社を整備して、和霊大祭を盛大にした。
 49年から3年をかけ、伊達家における本家争いを意識して、伊達仙台藩から自立する動きを見せた。具体的には“殿様”ではなく仙台藩と同様に“屋形様”と呼ばせ、仙台藩主へのあて名書きを“様”から“殿”に替え、正月の使者を省略し、伊達仙台家と絶交状態にある岡山の池田家と和解した。さらに大名籠の敷物に虎の皮を用い、堤防工事の提灯に日の丸を入れ、御用提灯の「紋」を格上げした。

 村候の在職は59年間と長く、晩年の1783-88年には「天明の大飢饉」の影響を受け、農村が深刻な状態になった。豪農となった庄屋と村人が対立する「村方騒動」が各地で起こり、百姓一揆も頻発する。
 ただし90年には60歳以上の領民に記念品を与えることができ、92年にはこれまでの功績により、幕府から馬一匹を与えられた。94年、村候は農村の惨状を憂えつつ、70歳で卒した。肥前の平戸藩主が1821年に起稿した随筆集『甲子夜話』では、村候を“三百諸侯屈指の英主”と讃える。
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