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伊予・吉田藩(中期)

 4代藩主・村信は、先代・村豊の次男だが、兄は早逝しており、父の死去にともない1737年に襲封した。幕命により公家や朝鮮通信使の接待役を課されたうえに、虫害や風水害の影響があり、藩財政が悪化した。ただし、さしたる対策をとらなかったとされる。
 しかしこのころハゼやウルシの実を絞って木蝋を作る技術が大洲藩から伝わり、45年にカラハゼの種子を領内に配布して、栽培を奨励している。蝋の純度を高め、良質の白蝋に精製して、蠟燭や鬢付け油に用いられた。54年に商人3名に晒し蝋と蠟燭を製造する権利を与えて、統制した。
 村信は26年間在職し、63年に隠居して次男に家督を譲り、2年後に46歳で没した。

 5代藩主・村賢(むらやす)は、1763年に就任した。86年、幕府に関東川筋の手伝い普請を命じられ、5000両を出費した。凶作にくわえ、これが重い財政負担となるが、特産品の紙・蝋などの専売により収入を増やすよりほか術がない。90年、御用商人に専売権を与え、利潤を吸い上げることとした。
 紙について「紙方仕法」を定め「紙座(紙方役所)」をもうけて、独占的買い付けを藩の御用商人の高月家(法花津屋)に任せた。法花津屋は、秀宗の宇和島入部のとき舟頭を務め、吉田藩が分知されたときに吉田へ移住した。紙の売買はもとより海運・金融・酒造・不動産業にも従事する豪商となり、藩への献金も莫大で、帯刀や伊達家家紋付の着衣を許された。
 吉田藩の御用商人にはほかに、金融の佐川家(御掛屋)、鮮魚の廉屋と武内家、菓子製造の酒井家、酒造の鳥羽家(久代屋)などがあった。
 村賢は、90年に隠居して次男に家督を譲り、直後に46歳で没した。

 「天明の大飢饉」(1782~87)では、気象不順と浅間山の噴火などにより、東日本を中心に激しい飢饉に見舞われたが、吉田藩でも農民の窮乏が顕著であった。1787年、宮野下村の三島神社の神主である土居式部清茂は、農民の窮状を見かねて、庄屋の樽屋与兵衛と謀って宇和島藩への越訴を企てた。しかし藩庁の探知するところとなって捕らわれて、獄死した。これを「土居式部騒動」という。
 農民に対する取り締まりが強化されるなか、1793年には宇和島最大の百姓一揆の「吉田紙騒動(武左衛門一揆)」が起こった。日吉村の百姓・嘉平(武左衛門)は、3年の間、門付け乞食に身をやつして百姓家を回り、領内83か村を一揆にまとめあげ、吉田藩挙げての騒動となる。
 一揆の主眼は専売制のもと、高利で生産資金を貸し付け、製品の紙を安値で一手に買い取る御用商人(法花津屋)の「打ちこわし」であった。役人のなかに結託して賄賂を受け取る者もいたから、藩は薄々に情勢を察知し、穏便に運ぶため要求があれば提出するよう求めた。農民らは17カ条の要望を提出するが、回答はことごとく農民らの期待に反するものであった。
 93年2月、農民らの憤激が極まり、約5000人の農民らが三間川筋の宮野下村に屯集した。藩庁は驚いて帰村するよう説得するが、かえって罵倒される。一揆勢は、吉田藩の宗家である宇和島藩へ逃散し、藩主へ訴え出ることとした。宇和島城下の八幡河原には、最多時に9600人が集まったという。
 村方役人らは一揆を抑えることができない。吉田藩の末席家老の安藤継明が駆け付け説得するが、叶わないので、安藤は一同の前で覚悟の割腹するという、衝撃的な展開を見せた。宇和島藩は要求をすべて受け入れ、主導者を処罰しないと約束したので、一揆勢は帰村した。
 しかし収まらないのが、吉田藩である。奸計を用いて首謀者の名前を聞き出し、武左衛門を捕縛し、安藤継明廟所;宇和島市HP.jpg人知れず山奥で斬首した。武左衛門は義農として語り継がれ、墓が建てられたが、そのつど藩が壊した。1873年、切腹した安藤継明は継明神社(のち安藤神社)に祀られた。(写真は安藤継明廟所;宇和島市HP)

 『愛媛県史 近世 上』(1986年刊)によると、近世の伊予国の百姓一揆の件数は、藩ごとにみると、幕領12・西条4・小松2・今治5・松山34だが、吉田15・宇和島65・大洲19・新谷1である。南予の諸藩が相対的に多いのは、地形的に平地が少ないうえに、小藩が分立して、苛斂誅求になりがちだったからであろう。
 列島全域では百姓一揆が3200件余あり、伊予国の155件(重複2件あり)は、信濃・摂津・羽前(山形)に次いで、全国4番目であった。
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