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近世の四国大名(讃岐)

 <豊臣政権>
 美濃国加茂郡の出身である仙石秀久は、秀吉の家臣としての働きにより累次に加増され、1583年には淡路洲本城5万石を領していた。85年には四国平定の功により、讃岐16万石を与えられ、宇多津の聖通寺山城に入る。うち山田郡の2万石が、十河存保(まさやす)に内分される。
 続く秀吉の九州攻めにおいて、緒戦となる豊後の「戸次川の戦い」(86年12月)に、四国勢の軍監として参加するが、戦術上の失敗によって大敗する。秀吉の怒りを買って讃岐の領地を没収され、十河存保も33歳で戦死した。

 87年1月、讃岐は尾藤知宣(とものぶ)に与えられる。知宣は尾張国葉栗郡の出身で、小牧・長久手や四国平定の戦いにも参加した。87年4月、九州攻めにおいて日向で「根白坂の戦い」があり、羽柴秀長軍が島津軍を撃破して、秀吉方が戸次川の敗戦を挽回した。ところが軍監として参加した知宣は、意見が消極的であったとして咎められ、讃岐の地を失う。4カ月足らずの在職期間では、さすがに積極的に戦う準備ができていなかったのではないか、との指摘もある。

 <高松生駒藩>生駒親正 弘憲寺蔵.jpg
 87年8月、讃岐は生駒親正(ちかまさ)に与えられ、のちに17.3万石に高直しされる。親正は美濃国土田(どだ)の出身で、秀吉に従って転戦し、近江高島2.3万石/伊勢神戸3万石/播磨赤穂6万石と出世を重ねていた。
 初代の藩主となった親正(写真;弘憲寺蔵)は、初め東讃岐の引田城に入るが東端に過ぎ、宇多津の聖通寺城に入ろうとするが狭い。那賀郡の亀山に築城すると東端の大内郡へ一日では行けず、西端の豊田郡は遠い。領内を一日で行ける場所として山田郡の由良山があるが、水の確保に難がある。
 その結果、香東郡の野原(いまの高松市)を選んで築城することに。北に瀬戸内海を臨む水城で、88年に築城を開始し、90年に完成した。当時の「絵」として三重の天守が伝わるが、詳細は不明。
 97年、領内の検地を始める。西讃岐を治める便宜のため、亀山に丸亀城を築き、嫡子・一正を置く。生駒家は播州赤穂から栘封したので、塩づくり農民に移住する者があり、讃岐の塩づくりがいっそう盛んとなる。

 2代藩主・生駒一正は親正の長男で、関ヶ原合戦(1600年)を前に、家康にしたがい会津の上杉攻めに参加した。そのまま関ヶ原に向かったので、合戦では東軍に属し、先鋒を務める。その功により、父の親正に代わって01年に高松藩の襲封を許される。(このとき父の親正は豊臣恩顧の大名として西軍に属し、敗れるとそのまま高野山に入り出家した)
 一正は在職9年にして、55歳で没した。

 3代藩主・正俊は一正の長男で、1610年に24歳で襲封する。11年、それまで在住した丸亀から高松城へ移動する際、商人を丸亀から高松へ移した。これが、いまの市内丸亀町商店街の始まりである。
 正俊は、大坂冬・夏の陣に参戦し、大坂城の落城後は修築に参加し、大石を献じている。ところが在職11年にして、35歳で急死した。

 4代藩主・高俊は正俊の長男で、21年に11歳ながら家督相続を許される。ただし幼少のため、外祖父にあたる伊勢国津藩主の藤堂高虎が後見役を任される。讃岐の国情を知った高虎は、25年に藤堂藩から土木技術家の西嶋八兵衛を讃岐に派遣した。(八兵衛の治績を一項を設けて後述する)
 30年、藤堂高虎が没し、子の藤堂高次が生駒家の後見役を引き継ぎ、藩主・高俊も30歳近くになっていた。このとき「生駒騒動」と呼ぶ家中騒動が表面化し、幕府裁定によって生駒家は改易され、出羽国由利矢島(現・由利本荘市)1万石へ移される。
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一柳小松藩1万石

 一柳直盛の第3子・一柳直頼(なおより)は、伊予における直盛の遺領5.86万石のうち、(長子・直重を通じて)1万石分を相続する。領域は西条の西に位置し、周布郡11ヵ村と新居郡4ヵ村を合わせた15ヵ村である。
 一柳直盛の遺領で成立した伊予の3藩のうち、西条藩と川之江藩はやがて没収され幕府領となったから、明治期まで続いたのは小松藩1万石のみであった。一柳小松藩は230余年の間続き、藩主は8代に及んだ。譜代家老の喜多川氏(400石)が重職を担ったとされる。

 初代藩主・直頼は1637年に入部し、周布郡塚村に陣屋を建て、この地を小松と改称した。本年貢は、検見法による5公5民を基本としたが、付加税や小物成(山林・原野・河海の収益に課すもの)があり、労役に代わる賦課として村高2%のコメを収納した。
 2代藩主・直治(なおはる)は直頼の長男で、1645年に就任する。新田開発に尽力し、300町歩の田を拓いた。大洲藩から小西伝兵衛を招いて紙漉きを始め、藩の特産品となって「伊予の奉書紙」が全国に知られるようになる。
 1679年、新居郡で輝安鉱(硫化アンチモン)を産する市ノ川鉱山が発見される。伊予の「白目」と呼ばれ、年間平均15tを産出し、合金材料などに使われる。個人に採掘を請負させたほか、19世紀前半(文化・文政・天保期)には藩が直営で採掘した。貴重な収入源となるが、需要は僅少であった。(昭和30年代に廃鉱となる)小松頼徳;i一柳家所蔵.jpg

 3代藩主・頼徳(よりのり)は直治の長男で、1705年に40歳で就任する。好学の藩主として知られ、書道・詩歌・茶道に造詣が深く、小松藩主のうち肖像画が残る唯一の人物(写真は一柳家所有)とされる。
 4代藩主・頼邦(よりくに)は、2代・直治の甥で、24年に就任する。32年7月、虫害に始まる「享保の大飢饉」に際会し、早くに被害調査に乗り出す。里村や海村の収穫は皆無で、山村でいくらかの収穫を見込める程度であった。幕府から貸付金2000両と廻米800石の援助を受け、御用商人に御用銀を命じた。備蓄米を放出し、山林を開放して蕨の根掘りを許可するなどをした。町年寄など富裕者による救済もあった。
 領民の4割が飢えを経験し、各月の飢え人の人数合計は5,411人となるが、餓死者は出なかった。伊予の他藩と比べれば被害は軽少と言え、33年4月に麦の収穫があり、飢饉がほぼ解消した。

 5代藩主・頼寿(よりかず)は頼邦の三男であるが、2人の兄が早逝したので、1744年に12歳で就任する。1751年ごろ、本年貢が検見法から定免法に変更される。側室を含めて7男3女をもうけた。教学の振興をめざして、朱子学者の竹鼻正脩を登用し、世嗣の侍講とした。
 6代藩主・頼欽(よりよし)は頼寿の次男で、兄が早逝したことにより、1779年に父の隠居にともない襲封する。竹鼻正脩を家老に抜擢した。在任中に、領内でたびたびの火災があり、悩まされた。
 7代藩主・頼親(よりちか)は頼欽の長男で、1796年に6歳で家督を継いだ。竹鼻正脩の建言により学問所の培達校を設立し、かねてから朱子学者で伊予聖人と呼ばれた近藤篤山を招聘した。篤山はやがて小松に定住して、約40年の間、藩士の教育に携わる。学問所は03年に養正館と改名され、御目見え以上の子弟を10歳になると入学させ、農・商家の子も受け入れた。
 08年に、伊能忠敬の測量に関わった。

 8代藩主・頼紹(よりつぐ)は頼親の従兄弟で、1832年に末期養子(実子のない藩主が危篤時に急遽申請して認められた養子)に迎えられる。三条実美らと交わり、藩論を尊皇派にまとめ、戊辰戦争では新政府軍に加わった。藩士51人が出兵し、越後から山形へ転戦して、3名が戦傷を負った。明治期には功績により、賞典金2000両を与えられた。
 藩に、勤皇の志士として幕末に奔走した田岡俊三郎がいた。1863年8月に尊攘派が京から追放された「七郷落ち」に同道して長州へ逃れ、10月には但馬生野で志士が挙兵した「生野の変」にも参加した。64年7月の「蛤御門の変」で、奮戦中に戦死した(享年36)。
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川之江藩 & 幕府領(別子銅山)

 <川之江藩一柳家>
 現在、四国中央市に含まれる川之江には、仏殿城と呼ばれる中世の山城跡があった。1337年に土肥氏が南朝方の砦として築き、仏殿と仏像を持ち込んだので、その名があるという。伊予・讃岐・阿波3国の国境に近く、戦国時代には何度も戦場になった。
 関ヶ原合戦のあと伊予に襲封された加藤嘉明が、1602年に織豊系城郭に改築し、石垣や枡形虎口を整えたとされる。しかし嘉明が松山城を居城としたとき、または「一国一城令」(1615年)によって、廃城となった。
 1636年、一柳直盛の第2子・一柳直家が、伊予の宇摩・周布両郡1.86万石と播磨の小野1万石を合わせ、2.86万石を領して川之江に入る。城の再建を計画したが、直家は入部6年目の42年に、参勤交代の途次に44歳で急逝する。男嗣がないため御家断絶となるが、直家は臨終のとき、自分の娘を弟・直頼の妻の弟(直次)に嫁がせ、養子とする申請をした。直次への相続は、播磨小野の遺領1万石のみが認められる。川之江城パンフレットから.jpg
 いま、鷲尾山の山頂に「川之江城」と呼ぶ天守が建つ。1984年に川之江市が市制30年を記念して、岐阜県(美濃)の犬山城を模して建てたもの。(写真は「川之江城パンフレット」の表紙から)

 <幕府領>
 一柳家から没収した宇摩・周布両郡1.86万石の地は幕府領となり、1643年に松山藩へ預けられる。松山藩が預かり地を返上したので、1677年ごろ以降に幕府直轄地となり、代官が大坂から派遣された。

 <別子銅山>
 越前から大坂に出てきた泉屋(住友吉右衛門)は、1623年ごろ、主として銅の交易と精錬(銅吹き)の商いをしていた。当時「銅」は日本の主力輸出品であり、泉屋は阿仁・尾去沢鉱山を稼行し、備中・吉岡鉱山の再生を手掛けていた。
 あるとき吉岡鉱山の一鉱夫が「かつて働いた伊予・新居郡の立川鉱山の南側に有望な露頭を見た」と語る。吉岡鉱山の支配人の田向はさっそく伊予へ調査に向かい、事実を確認し、1690年10月に川之江代官所へ採掘願いを提出した。
 地元の祇大夫がもともとの発見者であったから、競願となる。発見は泉屋の方が遅いが、願書の提出は早かった。出銅高に応じ幕府に納める運上金を泉屋の方が多く提示したこと、相当の資力と技術力を要する事業と推定されたことなどから、91年5月に泉屋に採掘許可が下りた。
 別子銅山の採掘現場は高峻な深山のため、採鉱に難渋を極め、8月に採掘を開始して91年の産銅高は5122貫目であった。その後は順調に拡大し、98年に40.56万貫目(≒150万kg)と91年の80倍となり、我が国の産銅量の1/4を占める。別子の盛況ぶりは「豫洲銀バコ白鼠」「別子長者三番ツヅキ」などの芝居につくられ、大坂の劇場で上演されて、住友家が世間体を気にするほどであった。

 1693年、鉱山に大風と出水による被害があった。94年には、火災でほとんどの山中施設を失い、死者132人(142人とも)、資材物資の損壊高5,400両の被害があった。95年に再び大風雨に襲われ、死者6人・損害2,200両を出した。(ちなみに94年の鉱山人口は14,000人超)
 95年、隣接する立川銅山との間で、境界争いが起こる。ふたつの鉱山の鉱床はひと続きと分かり、この場合、地表面の境が鉱床の境になる。これが2つの村の境界に当たり、西条藩と幕府領の係争地でもあった。幕府評定所の吟味に回されて結審までに3年超を要し、立川側がすでに59間分堀越しているとの結論となって、別子銅山側の主張が通る。
 1702年、幕府から永代請負稼行権を取得し、稼行体制を計画化する。03年、薪炭や荷物置き場が必要となり、土地交換を行って、面積2倍超の平地を西条藩に譲ることで対応した。(その後、立川鉱山は経営不振となり、1748年に泉屋が買収する)

 江戸期の住友家は、銅業のほか金融・貸家・小作の経営も行うようになり、大坂本店と別子銅山が2大事業所となる。1770年の手代人数は、本店23名/別子銅山40名と別子の方が多くなる。別子には管理部門のほか、採鉱・精錬・製炭・中継・船積の5現業部門があった。
 しかし江戸期を通じて、産銅量が次第に減少する。1819年には吉野川筋で鉱毒問題が発生し、43年と55年に休業願いを提出したが、幕府の援助により切り抜けた。明治期に入って、日本有数の銅鉱山として立ち直り、住友財閥の礎を形成する。
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