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藤堂家 & 生駒家

 「生駒騒動」の経過をたどると、讃岐の生駒家に対し、伊勢国津藩の藤堂家が大きく関わったことが分かる。
 藤堂高虎は築城の名手として知られた戦国武将で、羽柴秀長に仕え、秀吉の九州攻めの頂点となる日向の「根白坂の戦い」(1587年5月)で大きな戦功をあげる(このとき讃岐を領した尾藤和宣は、戦術が消極的であったとして領地を没収される)。高虎銅像;今治市HP.jpg
 高虎は朝鮮出兵のあと、伊予・宇和島(板嶋)6万石の城主となる。ただし1598年に秀吉が卒するといち早く徳川家康に接近し、関が原合戦では東軍に属する。戦後に伊予半国を領する今治20万石の城主となり、1608年に伊勢・津藩主に転じ、最終的に32万石の大大名となる。(写真は高虎の銅像;今治市HP)

 この間、秀吉の死後に五大老の筆頭として政務の第一人者となった徳川家康は、天下掌握に向けた工作を進める。大坂城で豊臣秀頼が存在するなか、豊臣系の国持ち大名を懐柔するため、徳川一門の実娘や養女と婚姻させたり、松平姓を与えたりする。家康が親縁関係を深める動きは、四国の大名家にも及ぶ。
 阿波の蜂須賀家政は、秀吉の四国攻めの功により1586年に阿波一国の知行を任されるが、武断派として石田三成らの文治派と対立したようだ。秀吉の死後は家康に近づき、家政の長男・至鎮(よししげ)は12歳のとき、家康の養女の虎(徳川譜代の小笠原秀政の娘)と結婚する。直後の関が原合戦(1600年)では東軍に属し、至鎮が徳島藩の初代藩主となる。大坂冬の陣(15年)には9000人の大軍を送り、戦功を賞され、松平姓を与えられる。
 土佐の山内一豊は、羽柴秀次に従った武将であるが、関が原合戦を前に徳川勢に加わり、1601年に土佐一国を与えられる。03年に一豊の養嗣子の忠義は12歳のとき、家康の養女の阿(くま、家康の姪)と婚約し、05年に結婚する。同年、忠義は土佐藩の2代藩主となり、10年に松平姓を与えられる。
 伊予松山の加藤嘉明も、秀吉のもと「賤ケ岳の七本槍」などの武功をあげた武将で、やはり石田三成らと対立して、関が原合戦で東軍に属する。戦後は伊予半国20万石を領し、08年ごろ嘉明の長男の明成が、秀忠の養女(保科正直の娘)と結婚する。(その後、加藤家は会津へ転封となり、明成が会津加藤藩40万石の2代藩主となる)

 これらと対比して、秀吉に仕えていた讃岐生駒家では、徳川時代となった1610年ごろ、3代藩主・正俊が藤堂高虎の養女と結婚する。家康の信頼を勝ち得た高虎が、生駒家を徳川方に結びつける役割を果たしたとみられ、これについて家康と高虎の間で腹合わせができていたのであろう。あるいは高虎が今治城主であったという地理的近縁性が、両者を結びつけたのか。
 こうした事情がどう評価されたかは不明だが、徳川幕府の発足当初に、格式が高い「国持十八家」と俗称された大名家に、阿波の蜂須賀家と土佐の山内家は含まれるが、讃岐の生駒家は一国を支配しながら、含まれていない。
 『家康の天下支配戦略』(黒田基樹著 角川選書 2023.10刊)によると、外様の国持ち大名のなかで、徳川家と婚姻関係がなかったのは、藤堂高虎・寺沢広高・生駒親正が属した3家のみであったという。肥前・唐津藩主の寺沢家も「島原の乱」が起こった苛政の失政を問われ、1647年に断絶となる。3家のうち、幕末まで続いたのは藤堂家だけである。

 生駒家に関し責めを負う形になったためであろうか、藤堂家の讃岐生駒藩に対する肩入れは、尋常ではなかった。1625年に土木技術者として津藩でも貴重な存在の西嶋八兵衛を長年にわたり讃岐へ派遣し、30年には4代藩主・高俊の婚姻相手に幕府年寄(老中)筆頭の土井利勝の実娘を斡旋した。
 この間の経緯について明治期の楽真子は「高虎の判断は適切であり、高次も学に篤い人物であった。ただし前野・石崎の両名は藤堂家に取り入って自分らの利益を優先させ、藩主・高俊を美少年踊り(生駒踊り)に熱中させて、讃岐藩政を壟断し、危殆に導いた」との筆致で綴る。
 いまさら論じても詮無い話ではあるが、藤堂・生駒の両家の関わりに関し、次のような疑問や悔恨が浮かぶのを禁じ得ない。
 一つに、藤堂藩から派遣された西嶋八兵衛は土木技術家とされるが、騒動を鎮めるための役割を果たせなかったのか。土木事業は藩財政に大きく関わるから、八兵衛にも騒動の情報は逐一入ったであろう。前野・石崎の両名が生駒藩の家老に就く以前は、八兵衛が讃岐の目付として政務に関することを藤堂藩に書き送っていたとされる。
 二つに、高虎の時代には後見役が必要であったとしても、10年間に情勢は変わる。息子の高次が藤堂家を継いだとき、高俊は30歳近くになっている。したがって生駒藩の後見役をも、引き継ぐ必要があったのか。中途半端な後見は、意思決定を遅延させ、不安定にし、混乱させるおそれがある。
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生駒騒動

 以下、讃岐高松藩の家中騒動として知られる「生駒騒動」にこだわり、しばらく話を展開する。まずは、騒動の経過をたどる。これについては、手近に次の2資料がある。
 ひとつは楽真子著の『寛永年間 生駒家家臣の争訟』が明治26年に読売新聞に掲載された長文を、秋田県矢島町の姉崎岩蔵氏が引用・抄訳し、生駒藩関係の諸資料を集大成した『讃岐・出羽 生駒藩史』(1970年刊)のなかに収録した。
 もうひとつは全く同じ内容のものが、明治27年に楽真子・後凋生の共著で『古今史譚 第四巻 生駒騒動』として刊行され、これをもとに海音寺潮五郎氏が物語化して『列藩騒動録 下』(講談社学術文庫 2007)のなかの1章とした。
 楽真子はペンネームのようで実像は不明だが、相当の資料を集め、慎重に取り扱ったと推測されるもの。讃岐の郷土史家である故・草薙金四郎も生駒騒動についてまとめている。これらから騒動の経過を時系列的にたどると、以下のようになる。

① 1621年、讃岐生駒藩3代藩主・生駒正俊が35歳で夭折し、長子の小法師が11歳ながら家督相続を許される。4年後に小法師は元服し、生駒高俊を名乗る。ただし若年のため、母方の祖父である伊勢国津藩主・藤堂高虎が後見役となる。
② 25年、高虎は讃岐における旱魃の実情を聞き、土木技術家の西嶋八兵衛を派遣する。八兵衛の働きにより水利灌漑が進んだから、公平を期するため田畠の等級変更(上田・下田など)を行うべきであるが、一向に進まない。聞くと、譜代家老の生駒将監(しょうげん)が頑固で硬直的であるという。
③ 藩内に意地っ張りで古い武士気質が漂うのを緩和した方がいいと考えたところ、生駒藩の江戸詰め御用人に前野助左衛門と石崎若狭という豊臣秀次の老臣に繋がる人物がいた。これらは世慣れており人柄にも問題がないと考えた高虎は、両名を江戸詰め家老に昇進させる。国家老は譜代派の将監ほかが務める。譜代派と前野・石崎派が人事や処遇をめぐって対立すると、江戸にいる前野・石崎は藤堂家の意向と称し、うまく立ち回る。
④ 30年、藤堂藩主の高虎が病没し、嫡男の藤堂高次が後継する。高次は生駒藩の後見役も引き継ぐ(高次は、高俊より9歳年長)。高虎の斡旋で、高俊(23歳)と幕府年寄・土井利勝の娘との婚約が成立していたところ、33年に結婚する。ただし妻は、6年後に子なくして卒する。
⑤ 将監が亡くなり、子の生駒帯刀(たてわき)の代になる(ただし将監と帯刀は同一人物との見方もある)。しだいに古株となった前野・石崎の専横が際立ち、家臣内の対立は高じ、互いに仲間を増やして党派性を強める。天候不順による凶作や幕府の手伝い普請により藩財政が窮迫し、石清尾山の松の伐採という資産処理をめぐる対立が起こる。
⑥ 37年7月、譜代家老の生駒帯刀は周囲にせかされて、前野・石崎の贅沢と専横ぶりを告発すべく「十九ヵ条の訴状」をまとめ、後見役の藤堂高次に提出する。反応がないので、38年10月に再提出する。
⑦ 39年4月、3度目の訴状が出されたところで、高次は舅(しゅうと)筋の土井家を交え、扱いを協議する。対立が公になれば生駒家が取り潰されかねないと懸念し、喧嘩両成敗を解決策とする。双方の首謀者4,5名ずつに「御家の安泰が大事」と言い含めて切腹を命じたところ、いずれも了承した。
⑧ ところが地元の譜代の若侍らは、何も悪くない帯刀らが処分されることを聞いて収まらない。この騒ぎのなか、39年12月に藩主・高俊が初めて家中騒動の次第を知る。前野助左衛門はこの冬に病死する。(このころ藤堂藩から派遣されていた西嶋八兵衛が、病気を理由に伊勢国津へ帰る)
⑨ 高俊が高次に対面を要求し、40年初に実現する。高俊は「自分が知らないうちに重臣の処罰が他家で決められた」として、解決策を承引しない。高次は自らの提案が拒否されたことに怒り「以後一円、生駒家のことを構わない」と突き放す。これを伝え聞いた帯刀は、驚いて高次に再考を願い出るが、肯んじない。解決策の瓦解が伝わり、双方ともに切腹を取り止める。
⑩ 地元の若侍らは、譜代派の処分が無くなったことに「道理が叶った」として気勢を挙げる。地元では前野・石崎派の者らを討ち取る手立てがあるとの風聞が流れ、同派の者らは衝撃を受ける。40年4月に御公儀に「訴状」を提出し、かたがた身の安全を図るためとして、一同に大坂方面への「立ち退き」を呼びかける。
⑪ 40年5月、東は引田・西は観音寺までの舟を残らず借り上げ、藩外に立ち退いた藩士は158人、家族・郎党などを含めると2~3千人にのぼった。譜代派の追撃をおそれ武器をともなったが、帯刀が押しとどめて、襲撃はなかった。
⑫ 40年7月、双方が幕府評定所へ呼び出され、吟味が始まる。1回・2回は水掛け論に終わる。3回目の席上、前野・石崎派の者が集団で立ち退いたことが明らかになると、幕府重役の顔色が変わる。藩主の承認なしに、徒党を組み武器を携えて藩外へ出ることは、重罪である。
⑬ 7月16日、騒動に対する幕府裁定が下る。前野・石崎派の18名は父子ともに切腹や打ち首などの死罪、生駒帯刀ら譜代派3名は他の大名家へお預け、となる。藩主・生駒高俊(30歳)は家中不取締りを理由に、領地を没収され、出羽国矢島荘1万石へ改易となる。ここに讃岐における生駒家54年の治世が終わる。

 こうしてみると、経歴と勤務地が異なる新旧家老の対立に発する家中騒動であり、どこにでもありそうな話である。家臣団のいがみ合いが激しかったとしても、幕藩体制を揺るがす大事ではないし、大名家を罰すべき事案とも思えない。30歳に近い藩主・高俊が途中まで本当に騒動を知らなかったのか、前野・石崎派の者らが重罪である立ち退きをどうして行ったのか、後見役の藤堂家の立ち位置は適切であったのか、などの疑問も浮かぶ。

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