SSブログ

前方後円形墳丘墓―吉備

 吉備には、古墳時代初期に築かれた前方後円形の墳墓がいくつかある。そのなかで次の2基が、供献された特殊器台と特殊壺の形などの変遷から、箸墓古墳以前の古墳時代前夜に築かれた前方後円形墳丘墓と見られる。
 「宮山墳丘墓」(総社市三輪)は、高梁川左岸にある三輪山(標高90m)の北西端(標高38m/比高25m)にある。西へ伸びる低い尾根筋に土壙墓などが連なることから、それらの盟主墓であろう。前方後円墳2基のほか多数の石棺・土壙墓などを擁する三輪山遺跡群の一角を占め、百射山神社の裏手にある。
 円丘は径23m/高さ3mで、東西方向に伸びる前方部が15mほど残っていたが削平された可能性があり、墳長38m以上を推定。吉備でもっとも古い前方後円形の墳墓で、円礫の葺石列があったと推定される。
 円丘頂にあった竪穴式石槨は円礫と角礫を積み上げて[長さ2.65m×幅1.0m×高さ1.0m]に造り、天井石がなく木蓋を想定。箱形木棺の埋葬頭位は、吉備の伝統とされる東枕。 (舶載)飛禽鏡、鉄刀、鉄剣、銅鏃、鉄鏃、ガラス製小玉が各1点ずつ副葬され、赤色顔料の痕跡があった。前方部の各所にも箱形石棺の埋葬施設があり、(舶載)飛禽鏡、ガラス製小玉、鉄剣1、鉄刀1、鉄鏃3、銅鏃1などを出土した。
 出土した特殊器台・特殊壺が庄内式期に並行する「宮山型」とされ、吉備の他の墳墓では発見されず、畿内の前方後円墳である箸墓古墳(280m)、西殿塚古墳(219m)、中山大塚古墳(120m)で見出された。

 「矢藤治山墳丘墓」(岡山市北区東花尻)もほぼ同時期の築造で、吉備津神社や吉備津彦神社の背後にある吉備中山(標高162.2m)で、これらの神社とは反対側で南面する。標高84mにあり、児島半島は当時、瀬戸内海に浮かぶ島で「吉備の穴海」と呼ばれた入海を一望した。
 墳長35.5m/後円部径23.5m/後円部高3mの前方後円形で、前方部は長さ11.8mと短く、先端がバチ型に開く。斜面には角礫の葺石があった。特殊器台・特殊壺は弧帯文の紋様が簡素化されたもので「矢藤治山型」とされ、吉備以外では発見されない。
 竪穴式石槨は付近で採れる角礫を積み上げた[長さ2.7m×幅1.0m×高さ0.7m]で、蓋石がなく木蓋を想定。埋葬頭位は畿内型につうじる北頭位で、槨内に赤色顔料の薄い痕跡があった。副葬品は、破砕された(舶載)方格規矩鏡1、翡翠製異形勾玉1、ガラス小玉若干、小形鉄斧1など。破砕鏡を副葬するのは、弥生終末期に一般的な方式であった。

 なお弥生時代の後期後半の築造に造られた「楯築墳丘墓」(倉敷市矢部)について、双方中円形とか前方後円墳とかと紹介されることがある。径約40m/高さ5mの円形の地山に、北東側に長さ6.5-19.5m(推定)、南西側に長さ22mの通路があるが、造墓者の意図として双方中円形などを意識したとは考えられない。近くでこの後に築かれた次の2基の墳形も、突出部のない円形ないし方形である。
 「鯉喰神社弥生墳丘墓」(倉敷市矢部)は、楯築墳丘墓から700mほど北西の丘陵端にある。墳丘上に鯉喰神社が建つなどして変形するが、墳丘は東西40m×南北32m/高さ4m強の不定円形または不定方形と推定。南北方位の石槨2があったとされるが、埋葬部未発掘。特殊器台・特殊壺・高坏・甕などの小片が採集されたほか、楯築墳丘墓と同種の弧帯文石があったと伝わる。
 「女男(みょうと)岩墳丘墓」(倉敷市西尾)は、楯築墳丘墓から400mほど南の小丘(標高4m)にあったが、畑や宅地の造成により消滅した。墳丘は長さ約20mの円形または方形で、特殊壺はあったが特殊器台はそれと推定される土器片のみを発見した。墓壙は[4m×2.5m]で粘土床が想定され、鉄剣2本・土器片200点を出土した。弥生終末期の築造を推定。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。