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双方中円墳

 古墳時代に移行するに際し、墳形を模索する一環として、初期の讃岐では讃岐型前方後円墳と同時に双方中円墳(両突出部付き円墳)が登場する。円丘を中心として対角線上の2方向に向け整美で長い突出部が伸びる形で、瀬戸内海を見晴るかす石清尾山古墳群に3基が造られた。
 尾根筋に築いて長大な墳形を誇示することを企図したから、そうとうに横長い墳形で、平地で築くには通行の妨げとなり適地を得にくい。また石が豊富な石清尾山では積石塚として長期間にわたって輝く姿を維持できるが、盛土墳ではそうはいかない。葺石でそうとうに手厚く覆わないと、草木で覆われたり降雨で崩れたりして、見栄えを維持できない。そのため広く普及するには至らなかったのであろう。

 「稲荷山北端古墳」(高松市室町)は、石清尾山塊の東部に位置する稲荷山の山頂の北端(標高165m)にある。中央の円丘径28mの南北両側に尾根筋に沿って突出部が伸び、南側20m/北側16mを測り、確認墳長64mとなる。ただし北側の突出部は下る傾斜面にかかって崩れ、末端を確認できない。後述する2基の双方中円墳と同様、南北の突出部が同一長であったとすれば、推定墳長68mとなる。
 現在は樹々の茂りに隠れて山麓から見えないが、欠かさずに木を伐採すれば、昼光に白く輝く積石塚を瀬戸内海の舟からも見通せた。埋葬部未調査のため、出土品不明。
 突出部が古いタイプの低平であること、海からを含め遠くから見通せる最高の場所を占めることから、石清尾山古墳群における最古の古墳のひとつと推定。鶴尾神社4号墳・箸墓古墳と同時期か、さらに古い時期の築造の可能性がある。

 「猫塚古墳」(高松市鶴市町ほか)は、石清尾山塊の中心位置の峰山にあり、馬蹄形状の尾根筋の南西端(標高200m/比高180m)にある。墳長96m/円丘径44m/2つの突出部長24.5m&27.5mで、石清尾山古墳群において最長である。墳丘の主軸は北東―南西方位にあり、南東側と北西側の山麓から仰ぎ見ることができた。1910(明治43)年の大盗掘によって中央部の積石が激しく攪乱され、現在はおびただしい数の石の山から、当時の墳形を推測するのみ。
 中央の円丘に埋葬部として5~9基の石槨があったとされ、出土品として碧玉製石釧1、鉄剣4、鉄刀1、柳葉鉄鏃4、柳葉銅鏃8、銅剣17、筒形銅器3、斧1、鑿2などがある。ほかに刑罰を恐れた盗掘者が出土品として、舶載鏡4・仿製鏡1を差し出した。積石塚であるため土に触れることなしに往時の輝きを維持するものがあり、いずれも優品である。。
 内訳は、内行花文精白鏡(前漢鏡/径16.7cm)、蝙蝠座紐内行花文鏡(後漢鏡/径14.0cm)、一仙獣帯鏡(後漢鏡/径12.8cm)、四獣鏡(後漢鏡/径14.0cm)、三神三獣獣帯鏡(倭製/径22.3cm)が各1面で、これらの作製時期が大きくかけ離れることが悩ましい。複数基あった石槨が異なる時期に造られたと想定するよりほかなく、もっとも古い銅鏡から判断して、築造時期は3世紀末~4世紀初より以前であろう。P1020466鏡塚から南の突出部.JPG

 「鏡塚古墳」(高松市峰山町)は、峰山の馬蹄形尾根において、東側で南北に走る稜線(標高203m/比高198m)にある。主軸は尾根筋に沿う南北方位で、墳長70m/円丘径30m(高さ3.6m)/双方突出部がともに長さ20m/幅9m/高さ2mである。
 積石塚であるため墳形が大きく崩れず、2つの突出部が同型という双方中円墳の形を視認できる。2段築成で、埴輪なし。墳丘上を登山道が通り、踏みしめられている。(写真は、中央の円丘から南の突出部を見たもの)
 鏡を出土したと伝わるのが名前の由来で、盗掘穴が多数。墳形の推移などから、3世紀末から4世紀初にかけての築造を推定。


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