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伊予・吉田藩(前期)

 宇和島伊達藩において、藩主が初代・秀宗から2代・宗利に移る際に、支藩である伊予吉田藩が生まれる。そのとき、ひと騒動があった。
 1637年、宇和島藩の初代藩主・秀宗が脳卒中で倒れ、言語障害に陥る。長男は病弱である(44年没)ので、二男・宗時が職務を代行するが、宗時も53年に没した。そこで19歳年下の三男・宗利が、宇和島藩の嗣子となる。四男・宗臣(むねしげ)はすでに他家の養子となっていたので、秀宗が寵愛した側室・吉井の方が生んだ五男・宗純(むねずみ)の処遇が懸案となる。
 そこへ秀宗が書いたという「分知状」が現れる。これには「宗利に家督を譲る。ただし宗純に3万石を分知する」とあったから、藩に激震が走る。秀宗はすでに朦朧として、真意を確かめるすべがなく、ときの仙台藩主・伊達忠宗や秀宗夫人の実家である彦根藩主・井伊直孝へ相談が持ち込まれる。
 そうしたなか陸奥一関の伊達3万石の藩主・伊達兵部宗勝に話を持ち込む者がいて、その介入を招いた。兵部宗勝は伊達政宗の十男で、伊達家一門における実力者と見做されており、幕閣にも話が通じて、宗純への分知が認められた。吉田陣屋跡;宇和島市HP.jpg

 かくして1657年に伊予吉田藩3万石が成立し、初代藩主・伊達宗純が誕生する。藩は家臣244人で出発するが、宇和島藩から高禄者が多く移されたので、人員整理と知行削減が行われ、藩士17名・知行高の約1/3が整理された。58年、藩内の湿地帯に陣屋の建設が始まる(写真は、現・吉田町の陣屋跡碑;宇和島市HP)。
 吉田藩の領地は80カ村余に及び、宇和島藩領を南北に分断するように東西に長い。飛び地もあったので、両藩の境界をめぐる争いが、その後に散発する。
 1671年、仙台の伊達本家で、御家騒動の「伊達騒動」が勃発する。審問の場となった江戸の大老邸で刃傷沙汰を起こした原田甲斐はその場で死去し、甲斐の後見役の伊達兵部宗勝が藩主であった一関藩は取り潰され、兵部宗勝は土佐山内藩へ配流となる。
 兵部の嫡男・宗興も豊前小倉の小笠原藩へお預けとなったので、宗純は許しを得て宗興の妻子4名を引き取り、吉田藩で丁重に遇した。吉田藩が分知されるとき、兵部の力を得たことに、報いたのであろう。兵部の小姓頭であった渡辺金兵衛は、吉田藩にお預けを通告されたが、断食して餓死したともいう。

 吉田藩内に、土佐の牢人で医術の心得がある山田仲左衛門が居住した。74年、宗純の難病を平癒させたことによって信頼を獲得し、破格の高禄で召し抱えられ、藩内で専横を極める。家臣8名が山田による御家乗っ取りを危ぶみ、暗殺を企てたが、83年に露顕し未遂に終わる。
 そこで譜代家老・甲斐織部が仙台伊達藩に山田の非を訴え、86年に仙台藩の江戸藩邸で聴聞の場が設けられる。弁舌では叶わない甲斐織部が、その場で山田に斬りかかったことによって、乱心を問われた織部は知行500石を没収され、逼塞処分となる。山田仲左衛門は仙台藩に終身幽閉となって、これを「山田騒動」という。
 事件から5年後、宗純は家臣によって隠居を強いられて家督を譲り、17年間の隠居生活を送り、1708年に73歳で没した。

 2代藩主・宗保(むねやす)は、宗純の二男で1691年に就任した。ただし在職2年にして、嗣子なく21歳で若死にした。

 3代藩主・村豊(宗春)は、宇和島初代藩主・秀宗の七男の次男(つまり秀宗の孫)で、1693年に襲封した。1701年、赤穂藩主・浅野長矩とともに幕府の勅使饗応役となり、3月に長矩が指南役の吉良義央に刃傷に及んだことが「赤穂事件(忠臣蔵)」の発端となる。このとき伊達宗春と称していた村豊もその場にいて、長矩を取り押さえる側に加わり、その後も無事に饗応役を務めた。
 宗春の初めての御国入りは、1704年であった。32年に「享保の大飢饉」に際会し、春の長雨とウンカの虫害により、伊予の全域が大打撃を受ける。吉田藩も「イネの生育皆無」と幕府へ報告しており、幕府から1年据え置き・5年賦の条件で、3000両を借りた。
 宗春は、25年ごろ村豊と名前を変えたようで、44年間在職し、37年に55歳で卒した。
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