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両統迭立・鎌倉幕府滅亡

 朝廷における2つの皇統、つまり亀山天皇に始まる大覚寺統(大覚寺で院政を行った)と、後深草天皇に始まる持明院統(持明院を御所とした)が並立する状況は、1286年ごろから混迷を深める。両統を公平に扱おうとする幕府の介入が係争を定着させ、双方から幕府への働きかけが活発化する。交替で帝位につくことで、廷臣は2派に分かれ、訴訟に対する裁断も皇統が変れば判決の内容が変るという状況になった。
 1300年、後堀河天皇の第1皇女・室町院が73歳の長命で没したとき、彼女が相続していた100ヵ所を超える皇室領をどう相続するかが争いになった。室町院は生涯不婚で、自らの立場を護るためか時期を違えて亀山帝と伏見帝の双方に譲り状を与えていたので、両統が相続の正当性を主張した。執権・北条貞時は所領を折半するなどの案を示したが、容易には決着しなかった。

 両統が皇室領の帰属を争ったことは、武家社会の「惣庶対立」を刺激した。武家は伝統的に惣領制を採り、惣領と呼ばれる嫡子が大きな権限をもち、庶子(側室などの子)を統制して軍団を組んだり幕府に奉公したりした。
 ところがこの頃、庶子が自立性を高め、所領の配分や御家人役の勤番などで嫡子と争うようになる。とりわけ元寇では大がかりな軍事動員が要請されたので、庶子が独立して対応することがあった。庶子が独立して相続すると所領は分割され、零細化して御家人らの困窮化が進む。

 こうした情勢のもと、1318年2月に大覚寺統の後醍醐天皇が31歳と満を持した年齢で践祚する。ただし前年の幕府を交えた「文保の和議」により、在位期間は最長10年、次は持明院統の天皇の即位と定められた。後醍醐帝は中継ぎの“一代の主”を運命づけられており、我が子が皇位につく可能性もない。天皇こそが国の最高権威であると考える後醍醐にとって、何とも屈辱的である。
 1324年6月に父の後宇多院が没して掣肘する者がいなくなると、皇位継承を専断する幕府を排除するよりないと考え、討幕の策が練られ始めた。これが9月に露顕し、後醍醐の側近である日野資朝(すけとも)が首謀者として佐渡に配流された(正中の変)。後醍醐帝自身は直ちに謝罪使を鎌倉に送ったこともあり、罪に問われることはなかった。実際はどうであったのか、今日の研究でも帝の関与の有無は不明とされる。

 後醍醐の執念を幕府が読み違えたのかどうか、1331年4月に討幕計画がふたたび露顕する。このたびは帝も山城国の南端にある笠置山に籠り、挙兵する。幕府は「承久の乱」の例に倣い、大軍を京へ攻め上がらせ、天皇を捕らえて隠岐島へ配流した(元弘の変)。代わって幕府は、持明院統の光厳天皇を擁立する。
 しかし騒然とした西国の情勢は収まらない。31年9月、楠木正成が河内で挙兵し、赤坂城・千早城で奮戦し、幕府は2年間にわたり鎮圧できない。32年10月、後醍醐帝の第1皇子・護良(もりよし)親王が吉野山で挙兵し、各地へ令旨を発する。33年1~3月には、播磨の赤松円心(則村)、伊予の土居通増・得能通綱・忽那重清、九州の菊池武時がそれぞれ挙兵した。後醍醐は33年閏2月に隠岐島を脱出し、伯耆の有徳人(裕福な商人)の名和長年を頼った。

 ただし鎌倉幕府に止めを刺したのは、源氏に連なる頼朝以来の有力御家人の足利氏と新田氏であった。いわば幕府軍の本隊が造反したことで、鎌倉幕府は瓦解する。
 下野国足利荘を本拠とする足利氏は、幕政とは距離を取りながらも、北条氏とは姻戚関係を結ぶ関係にあった。足利高氏(のちの尊氏)は後醍醐勢の鎮圧のため西国に赴くが、丹波国で幕府に叛旗を翻すことを表明する。33年5月、京の幕府拠点である六波羅探題を攻め、北条一族は関東に逃れる途中で430名が自害した。
 上野国新田荘を本拠とする新田氏は、幕府に冷遇されていた。新田義貞が軍勢を率いて鎌倉をめざし、南下する途中で鎌倉から逃れてきた高氏の子の義詮(よしあきら)も合流する。幕府軍との戦いは東国武士団同士の戦闘の常として、凄惨を極めたという。33年6月、幕府の首脳を形成する北条一門の700余人が自刃した。
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