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建武政権の成立

後醍醐天皇.jpg 1318年に即位した後醍醐天皇(写真)は、摂関職を設けることをせず21年に御親政を始める。31年に2度目の討幕計画が露顕し、隠岐の島へ流される(元弘の変)が、33年6月に鎌倉幕府が倒れたとの報に接して帰京する。幕府が立てた光厳天皇を廃して「建武政権」の成立を宣言した。
 内乱を経た政権の手始めとして、戦いに参加した者の所領に関しどういう方針を示すかが注目されるが、まず「当知行安堵」を宣明した。所領の現況を優先し濫妨の停止を命じる措置であるが、当然ながら味方に対する知行安堵であり、敵方の領地は没収する。入京2日後から、さっそく王家・廷臣・寺社・武士の順に安堵綸旨を与えた。
 後醍醐帝は綸旨万能主義を掲げたが、個々に安堵するのは個別の訴えを次々に誘発し、事務煩瑣である。そこで一般的原則を打ち出すべきであると考え「北条高時ら朝敵が有していた所領は没収し、旧領主の権利を回復する」方針を示した。33年9月には「雑訴決断所」を設立し、所領に関する訴えを扱うことにした。

 雑訴決断所においては、皇統が替わっても変わらない絶対的な正統的基準として、34年5月に「承久の乱(1221年)以降の売却は、将軍の下文(くだしぶみ=売買確認証)があっても無効。とくに後醍醐天皇が光厳天皇に譲位した1331年以降の売却は無効であり、元の持ち主に取り戻す」との原則を示した。
 天皇の絶対的権能、および土地は本来の持ち主(本主)が支配すべきであるとする徳政の考えに立ち、突き詰めると「幕府に強要されて後醍醐が光厳に譲位した時期以後の経緯はすべて無効。上皇・天皇が配流された「承久の乱」以降の幕府の措置も無効」という結論に至ったのであろう。
 ただし所領の売却が無効であるとしても、誰に帰属するのか。前の持ち主か、過去に少しでも関わりを持つ「本主」をどうするか、倒幕の恩賞として与えた所領も無効なのか、などの疑問が提起される。そこで「購入者が滅亡しておれば売却者が取り戻す、購入者・売却者ともに倒幕の戦いに貢献した場合は、双方を保護する」などの原則を示した。

 以上は、喪失した所領の回復訴訟(売却地を取り戻す事案)における鎌倉幕府の認可行為などを否定したもの。ただし北条氏が下したすべての権利や保証は不当であるとの拡大解釈を生み、過去の経緯を一掃しようとして、さまざまの訴えが喚起される。
 そのなかで後醍醐帝の寵臣が別扱いされ、あるいは個別に安堵される事案が露見して、討幕の戦いに参加した武家の間で不満が高まる。天皇御親政のもと、後醍醐帝は法治を目指したが、自らへの貢献が判断の根幹にあることが露わとなり、公平性が揺らいだ。

 建武政権の地方支配については、国ごとの経営が知行国制により有力者に委ねられている状態を改め、新たに国司を置いて中央政府が掌握する姿勢を示した。国司は国衙領(公領)の支配のほか、寺社の修造、一国平均役の徴収、荘園・公領における太田文の作成と管理などを所掌した。
 武士の力も一概に否定できないことから、国司のもとに守護を置き、ほとんどの場合に武士を任命した。守護は重大な犯罪人検断や使節遵行(中央の裁断を現地で実効に移すこと)を担う。所領問題については、雑訴決断所の決定のもと、国司と守護が施行する手続きとした。
 もっとも国司と守護の関係は必ずしも明確ではなく、中央政府の指示のもとで、両者が併行して職務を遂行し、また同一人物が兼務する場合もあった。

 吉井功兒氏(1928~ 元・毎日新聞社)が著した『建武政権期の国司と守護』(近代文藝社 1993)では、諸文献を踏まえて、建武政権における四国の国司と守護を次のように推定している。
建武政権の国司・守護.jpg


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