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宇和島伊達藩(幕末)

伊達宗城;愛媛県教育会.jpg 8代藩主・宗城(むねなり;写真)は、旗本3,500石の山口直勝の次男で、5代・村候の外曽孫に当たる。7代・宗紀により養嗣子として育てられ、1844年に家督を相続する。
 44年、江戸城本丸が焼失し、復興費用として15,000両の上納を命じられる。年500両/10年賦を願い出て許されたが、暴風雨被害などがあり、さらに延納を余儀なくされた。

 幕府の1825年における「異国船打払令」は「外国船は見つけしだい打ち払え」との命令であったが、アヘン戦争を経て42年に改定される。「異国船の望みが薪・水・食料であればこれを与えて引き返させる」に改め、各藩には改めて海防強化と海岸絵図の作成を命じた。海に面する藩にとって海岸防備は日常的課題であるから、宗城は蘭学・洋学の導入により体制の強化に努め「蘭癖大名」と呼ばれる。
 42年、宗城は藩士3名を西洋砲術習得のため江戸へ送り、44年に帰国すると「威遠流」と名付けて、藩内に砲術指導を命じた。会津藩から火薬の製法を学ばせて火薬製造所を造り、45年には大砲の鋳造所を造った。57年、藩の砲術がいくつかあったのを西洋式の威遠流に統一し、陣立てを整えた。
 「蛮社の獄」から脱獄し行方不明中であった高野長英を、48年に宇和島に招き、伊東瑞渓と名を変えて蘭学塾「五岳堂」を開き、久良(ひさよし)湾(現・愛南町)の久良砲台を設計させた。55年には宇和島湾の樺崎(かばさき)に、蛭子(えびす)山砲台を設けた。
 53年、村田蔵六(のちの大村益次郎)が宇和島に来たのを藩士に取り立て、兵書や軍事編成を研究させ、藩内で洋学を講義させた。この年、幕府の「大船建造禁止令」が解除されたので、55年に軍艦のひな型を作った。59年には独力で蒸気船を建造し、湾内で試運転を行った。我が国では薩摩藩に次ぎ、2番目であったという。
 66年に、砲隊をオランダ式に、銃隊をイギリス式に改めた。かくして軍事力が涵養され、宗城の指導によって名実ともに雄藩となる。これには先代の努力により、金銭的貯えがあったことも大きい。

 宗城は幕政に対しても積極的に発言し、松平春嶽(福井)・山内容堂(土佐)・島津斉彬(薩摩)の3名と合わせた4名は、しばしば会合を開きあるいは書簡を交換し「幕末の四賢侯」と呼ばれた。四賢侯は弱体化する幕府権力を補強するため、公武一体論を唱え、将軍・家定の継嗣をめぐっては一橋慶喜を推して一橋派とされた。
 ところが南紀派の井伊直弼が大老となって、紀州の徳川慶福が将軍となり、将軍・家茂が生まれる。58年に「安政の大獄」の嵐が吹きすさび、宗城は病気を理由に依願隠居の形で退いて、家督を譲る。
 9代藩主・宗徳(むねえ)は、7代・宗紀の三男であるが、兄2名は夭折し、8代・宗城の正室に男子がなく、養嗣子となる。1858年に襲封するが、60年に大老・井伊直弼が「桜田門外の変」で横死したので、先代の宗城が隠居を撤回して復活した。このため以後の藩政は、宗城と宗徳のふたりが二人三脚で務めた。

 62年2月、家茂将軍と皇女・和宮の婚儀が行われ、四賢侯が主張した公武合体構想が進展するかに見える。同年11月、朝廷から宗城の上洛を促す沙汰書が届き、宗城は欣喜雀躍して12月に入京する。
 ところが京では尊王攘夷派の活動が盛んで、公武合体派の四賢候は動きが取れない。64年2月、徳川慶喜・松平容保(会津)に四賢候を加えた参与会議が設けられるが、3月には瓦解し、宗城らは帰国した。その後も四賢候の間で、何度か意見調整が試みられるが、成就しなかった。
 宗城は一貫して武力倒幕に反対するが、薩長勢はあくまでも討幕を主張する。徳川幕府の成立時において、徳川家康の各家に対する姿勢が、伊達家(宇和島)・山内家(土佐)と島津家(薩摩)・毛利家(長州)の間で大きく異なった。この違いが、250年を経て、各藩の徳川慶喜の処遇に対する態度に影響を与えた。

 64年の長州第1次征討において宇和島藩は二の手を命じられるが、準備に手間取り、長州の境まで2千数百人が出陣したところで長州が降伏し終わった。66年の長州第2次征討では、一の手の松山藩に協力するよう命じられ、佐田岬半島まで出兵したが、それ以上には進軍しなかった。
 68年1月の鳥羽・伏見の戦いでは、中立の立場において兵を動かさなかった。薩長政府により松山藩征討の支援を命じられたときには、藩兵950人が松山城南西約12kmにある伊予郡の郡中(ぐんちゅう)まで進発して駐屯したが、数日後に引き払った。
 68年9月、箱館に出兵するよう命じられるが、軍船などが整わないうちに、箱館が鎮定された。このため戊辰戦争から明治維新にかけて、藩の殉難者は0であった。

 1891(明治24)年、元藩主の伊達宗徳は侯爵に叙せられるが、仙台伊達家の元藩主は、伯爵にとどまる。仙台藩が一時朝敵となったためで、西の伊達が東の伊達を爵位で上回り、伊達家内における両家の家格が逆転した。
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