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宇和島伊達藩(後期)

 6代藩主・村寿(むらなが)は村候の四男で、1794年に32歳で家督を継ぐ。1824年まで在職するが、1817年に実権を息子に預けたので、政権運営の実質は23年間であった。
 政策の柱として、次の4ヵ条を掲げた。有能な藩士の登用・きびしい倹約令・商品作物による運上銀増収・疲弊した百姓への年貢免除の4つ。
 奨励する商品作物として、これまでの蝋・紙にくわえ、生糸・砂糖・塩・炭・酒・酢・醤油・味噌の生産を挙げ、さらに椎茸・紫根・菜種の栽培も試みた。
 ただし村寿の在職中に、風水害8回と旱害1回の災害に見舞われた。1808年夏に伊能忠敬の測量班が来藩し、宇和島は複雑なリアス式海岸のため多くの作業が必要で、測量班の接遇と助力に出費が嵩んだ。
 さらに1814年、東海道の河川改修の手伝い普請を命ぜられ、15,300両を要した。16年にも東海道の河川改修工事を命ぜられ、12,800両余を支出した。

 財政窮迫に対処するため、藩内から差上銀(献金)を募り、藩士に対し半知借上(給与の半分切り下げ)を5年間行い、藩札を発行するなどした。しかるところ、1812年に財政改革に関する重臣間の意見対立から「萩森騒動」という刃傷事件が起こる。
 11月、藩の老中・稲井甚太左衛門が、これまで実施してきた家臣からの半知借上げにつき、さらに3年間の延長を提案したところ、家中一同が沈黙するなか、番頭(ばんがしら)の萩森宏綱が声を荒げた。「これまでの倹約でどれだけ効果があったのか、下士層の者は日々の暮らしがもたない」と訴える。
 翌日、萩森は稲井邸に討ち入り、脇差で斬りかかる。大勢が集まる場であったので、萩森は取り押さえられ、切腹・御家断絶となった。ただし家臣への半知借上は三分借上となり、家臣への貸付金はすべて引き捨てになる。宏綱の霊は「萩森神社」に祀られ、世直しの流行神となる。宏綱が切腹した年に生まれた11歳の少年に対しては“格別の吟味”をもって、萩森の家名を継ぐことが許される。

 7代藩主・宗紀(むねただ)は村寿の長男で、父の隠居にともない1824年に35歳で家督を継ぐ。すでに1817年、父の病気を理由に政務を任されていたから、心構えはできていた。25年5月に入部すると、藩政が窮乏する原因を分析させ、種々の指示を発出して「文政の改革」を推進する。
 25年11月、5年間の厳略を命じる。“厳敷省略”を約めた言葉で、万事における質素簡略と風俗矯正がその内容である。具体的には、筆墨紙の節約・宇和島から他所へ出向くこと禁止・役人の定刻出勤・離婚の抑制・風俗取り締まりなどを命じ、これを幕府に届け出た。家老のひとりはこれに応じて、進物は親子兄弟伯父叔母に限る、来客はひな祭りと弁天祭りの年2回で肴2種に限る、などを命じたという。
 28年、江戸上野の常憲院殿の霊廟修復という幕命により、13,000両を費消したのを機に、財政改革を決意する。29年、大坂商人からの借金が20万両に達していたところ、20年以上前のものを帳消しとした。以後に資金融通を受けられなくなるから、大きな決断である。さらに銀札(藩札)の3分の1切下げ(つまり3分の2の召し上げ)を断行した。何らかの騒動が懸念されたので、一応借上げの形を採ったが、藩札の値打ちは下がっており何事もなく切り抜けた。
 30年、5年間実施した「厳略」を停止するが、藩士に対する知行の5割用立て(半分借上げ)を3割用立てに減額し、5年間延長した。
 殖産面では31年、農政学者として著名な江戸の佐藤信淵(のぶひろ)のもとに家臣2名を派遣し、41年に帰藩して、信淵の著書が数10冊もたらされた。両名は、朝鮮人参の栽培を試みたり、農業技術の指導を行ったりした。
 水産関係で、塩・スルメイカの増産を図り、干鰯(ほしか)などの海産物を大坂市場に出荷し、収益を得た。
 木綿生産を普及させた。紙・木蝋・木綿の商品作物について、逐次に専売制を導入し、運上銀の対象とした。天赦園.JPG

 36年、幕府から美濃・伊勢の河川堤防の修築工事を命じられ、14,200両を要した。外国船がしげく到来する折から、海防に意を用い、最新砲術の導入・火薬製法の研究・火薬製造場の設置などに努めた。
 宗紀の男子は早くに夭折しており、5代・村候の外曽孫に当たる男子を養嗣子に迎え、44年に隠居して家督を譲った。在職中に、6万両の蓄えができたという。
 62年に隠居所として潜淵(せんえん)館を建て、63年に回遊式庭園の「天赦園」(写真)を造営した。89年に、98歳 or 100歳で卒した。
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