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西嶋八兵衛

 藤堂家から生駒藩へ派遣された土木技術家の西嶋八兵衛の事績をたどる。彼の土木事業によって、讃岐が裨益したところは大きい。
 先々項で紹介した『生駒藩史』によると、八兵衛は「一六二五年(三十歳)から一六三九年(四十四歳)までの十五年間、讃岐生駒藩の客臣として聘せられ、郡村のことを掌り・・・土木、経済に顕著な功績を残した」とある。
 内海彌惣右衛門著『真書 生駒記』(1931年刊)も「万事に達して地方の取り計らい調練せし」人物で「讃岐において大池90余ヵ所を築いた」とする。
 気象的に雨の少ない讃岐には、満濃池・三谷池・神内池・衣掛池・大池などたくさんのため池があるが、八兵衛はこれらの築造や修築に関わった。

 そのほか高松城下の洪水被害の低減における八兵衛の貢献が大きい。香東川はかつて中流で分岐し、石清尾山塊の東西両側を囲むように流れて、東流は城下の中心部を貫流した。このためときに洪水の原因となるので、香東川の分流地点で東流を堰き止め、西流に統一する。この付け替え工事によって、高松の城下は洪水被害を免れることとなり、後には伏流水を用いて上水道が整備される。
 後世に裨益する大事業であることから、東流の堰き止め地点の大野(高松市香川町)には「大禹謀(だいうぼ)」と刻した石碑が立てられた。中国の『四書五経』のひとつである『書経 五十篇』のなかに「大禹謀」と題する一篇があり、これに夏王朝の禹が先帝の舜に水利事業を進言したことが記される。大禹謀 F1000083-1.jpg
 八兵衛の事績は、禹の構想(謀)に叶うものと讃える石碑であるが、いつの頃からか行方不明になっていた。それが大正年間の堤防工事の折に発見され、いま栗林公園内に保存されている(写真)。

 讃岐の水利事業から後における西嶋八兵衛の消息を『生駒藩史』によりたどると、次のようである。
 生駒騒動が煮えたぎる最中の1639年に、八兵衛は「病気を申し立てて暇を請い、勢州に帰った」。40年に幕府裁定が下されたあと「讃岐より帰勢後、一六四一年(四十六歳)に幕命により讃岐に遣わされ」とあるのは、生駒藩の改易にともない、幕府の城受取人の案内や引継ぎの業務を命じられたのであろう。
 その後は、伊勢国・津における八兵衛の活動が記され「一六四二・四七年の大旱(ひでり)に際し、伊勢・伊賀の領内を巡回、つぶさにその惨状を視察し、井堰の改良、溝渠の開鑿(かいさく)、溜池の改修を行った」「五十三歳で城和奉行、六十三歳で伊賀奉行に転じ」たが「後任の死去によりふたたび城和奉行に復職し、八十一歳で隠居するまで大いに治績を挙げ、八十五歳で病没した」とある。
 城和奉行とは、伊勢国の津にある藤堂藩が大和国と山城国に領した5万石相当の地域を治める役職である。本領の伊勢国とは異なり、格別の気遣いを要するとされ、八兵衛はこれを都合29年の間、務めた。

 これらから察するところ、八兵衛は責任回避を図るような人物には見えず、生駒騒動には大いに気をもんだに違いない。騒動の当事者らが一旦は切腹を受け入れたように当人らにはどうしようもなく、かといって他人の介入も許せないほど、対立は激しかった。八兵衛はいたたまれないかのように、騒動の最中に病気を申し立て、津へ帰った。自分より格上の家老同士の争いであり、高虎がかつて推挙した人物が絡む事案であるから、介入や調整ができなかったのか。
 近年「大禹謀」と銘打つ饅頭を、高松市内の菓子処「かねすえ」が売り出した。形は大禹謀の石碑に似せた造りであり、縦に細長い自然石の上部が少し傾くのが、八兵衛の思案投げ首を写すようである。
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