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讃岐型前方後円墳の広がり(1)

 古墳時代の幕開け時に、盛んに造られたもうひとつの墳形が讃岐型前方後円墳である。築造場所は平地ではなく、山頂・尾根筋や島嶼など遠くから見える場所に築かれ [後円部径≒前方部長] を墳形の特徴とする。前方部が標高の高い方向に向き、形が細くて低いというのは築造労力を節約するためであろう。鳥瞰すると「杓文字(しゃもじ)型」に見える。
 突出部付き円形周溝墓に似た墳丘を広範囲に誇示するため、高地や島に築く場合、前方部(突出部)をバチ型にすることにあまり意義を感じず、極力、長大に見えることを企図した。ただしあまり長くても締まりがないから、キリのいいところで後円部径と前方部長を同じ程度の長さにした、というのが築造プランであろう。もっとも凸凹のある高地ではプラン通りに築くのがむつかしく、墳墓の経年変化もあるから、だいたいの姿ということになる。
 讃岐型は前方後円形の発祥地である讃岐で普及した。3世紀の前中葉に始まり、4世紀代までの築造に限っても、かなり数が多い。

 「鶴尾神社4号墳」(高松市西春日町)は、石清尾山古墳群を擁する峰山の馬蹄形状尾根から南東に派生する稜線の突端にある。墳長40m/後円部径19.7m/前方部長20.3mを測る積石塚で、獣帯方格規矩四神鏡1面を出土した。これが前漢と後漢の間にある「王莽」の時代の漢中期とされるAD1世紀ごろに作られた中国鏡で、首飾りとして一身専属的に身に着ける装飾品に加工されていた。被葬者が長寿であったとすれば、3世紀前半の墳墓の出土品として不思議はないが、鏡の模様の〝不鮮明さ″が議論を呼んだ。
 手元で代々愛用されたことによる手ずれが原因であるとする「伝世鏡論」が提起され、鋳上がりの悪さによるとする意見と対峙した。これが本墳と箸墓古墳のどちらが古いか、という築造時期論争の背景をなしている。
 「石清尾山(擂鉢谷)9号墳」(高松市西宝町)は、峰山の馬蹄形状尾根筋の北西端(標高185m/比高180m)にある。墳長27.4m//後円部径13.1m/前方部長14.3mを測り、前方部幅はくびれ部5m/先端部10mのバチ型。後円部2段・前方部1段築成の積石塚だが、開墾により大きく変形する。埋葬部は安山岩製の竪穴式石槨(長さ3m以上と推定)とされるが、未調査。鶴尾神社4号墳とほぼ同時期に築かれた最古級の古墳とされる。

 「野田院古墳」(善通寺市大麻町)は、中讃地区と東讃地区を画する大麻山の山頂から西へくだる丘陵台(標高405m/比高360m)にあり、列島でもっとも比高の高い古墳として知られる。墳長44.5m/後円部径21mを測り、前方部の幅はくびれ部7.5m//先端部14mのバチ型。後円部は積石塚だが、前方部は盛土墳で葺石があった。出土した土器片などから3世紀後半の築造を推定。現地で墳丘と埋葬部が復元されている。
 「大麻山椀貸塚」も同じ大麻山古墳群に属し、山頂から北東にくだる中腹の丘陵尾根(標高221m/比高175m)にある。墳長39m/後円部径20mを測り、前方部の幅はくびれ部7.5m/先端部13.5mのバチ型。後円部は積石塚だが、前方部は盛土墳で葺石あり。後円部頂に盗掘坑とみられる窪みがあり、竪穴式石槨が東西方位にあると推定。4世紀初頭の築造か。

 「うのべ山古墳」(さぬき市津田町)は、津田湾に出入りする舟を睥睨する湾内の島に築かれた。墳長37m/後円部径17mを測る積石塚で、埋葬部は未調査。埋め立てが進んだため、住宅に囲まれて現存する。最古級の古墳とされる。丸井古墳.JPG
 「丸井古墳」(さぬき市長尾町打越)は、高松平野の東方で東讃地区との境を画する塚原山塊の中央部で標高151m/比高100mにある。墳長29.8m/後円部径12.8×13.2m(楕円形)/前方部長17mが地山成形で造られた(写真)。竪穴式石槨2基が東西方向にあり、第1石槨から鉄斧1・鉄鏃3・ガラス玉8・管玉3が出土し、第2石槨から画文帯環状乳神獣鏡(径14.2㎝)が出土した。
 同種の画文帯環状乳神獣鏡は、2∼3世紀に作られた中国鏡で、古墳時代初頭の築造とされる新山古墳(奈良県広陵市、126mの前方後方墳)からも、類似のものが出た。
 「奥14号墳」は、津田湾から内陸へ向かう雨滝山の峠にある奥古墳群に属するが、ゴルフ場開発により消滅した。墳長32m/後円部径16mで、前方部の幅はくびれ部7m/先端部9mとわずかにバチ型に開く。地山整形で1段築成に造られ、葺石あり。外表部から土師器壺の口縁部2、焼成前に穿孔された底部2を採集した。
 竪穴式石槨2基があり、1号石槨には割竹形木棺(長さ3.3m)が頭位西にあり、(舶載)画紋帯環状乳神獣鏡(径12.9㎝)1、硬玉製勾玉3、碧玉製管玉12、ガラス小玉14以上、鉄片1を出土した。2号石槨は頭位東で、(舶載)画紋帯環状乳神獣鏡(径14.0㎝)1、袋状鉄斧1を出土した。
 「奥3号墳」も近くの丘陵頂部にあり、内陸・津田湾の双方向を眺望する位置にあったが消滅した。墳長37m//後円(楕円)部径22m×17mで、前方部の幅はくびれ部8m/先端部10mのゆるいバチ地型。1段築成で葺石・埴輪なし。
 竪穴式石槨と箱式石棺の各1がほぼ東西方位にあり、第1主体の石槨には頭位東の割竹型木棺(長さ3.54m)が推定され、(舶載)三角縁三神五獣鏡(径22.7㎝)1のほか、鉄剣・鉇(ヤリガンナ)・刀子・鉄斧の各1が副葬された。第2主体の箱式石棺(長さ1.65m)は頭位西で、赤色に塗布されていた。鉇1・鉄斧1が副葬され、熟年女性の人骨は司祭者という。古墳時代初期の築造。


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