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律令制下の大土地所有

 我が国の古代から中世へいたる土地所有形態に「荘園」がある。中世社会の経済基盤であり、時代ごとにさまざまの政策が提起されたから、以下ではこの話題で歴史を綴ってみる。荘園がどのようにして生まれ、時々の政権がどう対応し、人びとの生活をどう規定したか。これらを極力、四国の事情を含めながら辿る。

 律令政府は「班田收授」によって「すべての土地を公領とし、公民に対し一定の口分田を配布する」ことを企図した。しかし考えてみると、国中のすべてが農民ではないから口分田を耕しようがない人がいるし、またそれまでの大土地所有を払拭できたのであろうか。
 当然ながらさまざまの例外措置が設けられた。貴族には「位田」が与えられ、国司や郡司などの官人には「職分田」が配布され、皇族・寺院には従来の大土地所有に見合う「別動封」が分与された。
 律令制下に「封戸(ふこ)」の制度があった。この田畠で収穫された「封戸物」は各国の国司が収納したうえで、封主である寺社に給付する建前で、基本的に郷(50戸)を単位に設けられた。租の半分と調庸の全部が封主に与えられ、739年からは租もすべて封主のものになった。収穫物の収公に国司が関わり、後世の荘園とは異なる。

 四国にも封戸が存在した。各県の『県史』その他から得られる事例は次のとおり。当時の土地事情に関し「延喜式」のような全国的・統一的資料はないから、諸資料からたまたま拾い上げられた事例に限られる。各項で( )内などに記した西暦年は、当該事例が初見された年であり、立荘時とは限らない。[ ]内は根拠となった資料名である。これらが不明な場合は記さない。
 以上のことは、これ以降の記述に共通する。

<讃岐の封戸>
 薬師寺へ 733年 200戸 
 山階寺(興福寺)へ 738年 100戸 
 東大寺へ 750年 山田郡宮処郷・香川郡中間郷・鵜足郡川津郷に各50戸 (12世紀まで存在確認)
 法華寺へ 那珂郡に戸数不明 [造法華寺金堂所解]
 橘寺へ 763年 50戸
 唐招提寺へ 779年 50戸
 妙見寺へ 780年 50戸
<土佐の封戸>
 東大寺へ 752年 土佐郡鴨部郷・吾川郡大野郷に各50戸[東大寺東南院文書]
 高鴨社へ 766年 全国53戸のうちの20戸[新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)]
 大安寺へ 8世紀以前 13カ国に1000戸あるうちのひとつ[大安寺資財帳]
 
 律令制の導入に際し「大化改新の詔」(646年)の第1条には「むかしの天皇などの立てる子代の民、所所の屯倉、および豪族らの所有する部曲の民、所所の田荘(たどころ)を止めよ」とある。つまりすべての土地を収公して公有とし、それまでの大土地所有は廃すると宣言する。
 ただし天皇家・豪族・寺社などの大土地所有を、すべて停止するのは困難であったに違いない。四国にも8世紀前半の時点で、法隆寺と弘福寺(グフクジ)の所領が存在した。弘福寺とは川原(カワラ)寺とも呼ばれ、天智朝に創建された飛鳥の官大寺である。

 弘福寺領 709年までに全国15カ所/200町を超える所領が成立した。[709年 弘福寺田畠流記帳]
 讃岐には「讃岐国山田郡 田図」(735年)が現存し、描かれた田・畠・屋・倉に大宝令(701年)以前に使われた田籍単位が記される。このことから7世紀に寺領として田20町が占定され、大宝令後まで続いたと推定される。
 法隆寺領 全国に所領46カ所があった。[747年 法隆寺流記資財帳]
 讃岐では13か所。郡ごとの箇所数は、大内・山田・多度・三野に各1、三木・阿野・鵜足に各2、那珂郡に3カ所で、8郡の面積は合計で1町4反350歩。
 伊予では14か所。郡ごとの箇所数は、神野・浮穴・骨奈(忽那島荘)に各1、和気・風早に各2、温泉郡に3カ所、伊予郡に4カ所であった。
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