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延喜天暦の治 

 10世紀代になると「6年1籍・6年1班」とされた6年ごとの班田収授は、ほとんど行われなくなる。902年には改めて12年に1回行うことを命じる法令も出されたが、実行されない。原因として、墾田永代私有令などで増えた私有田の田籍確認作業が複雑化・長期化したこと、税負担を逃れながら口分田を得るためとみられる高齢女子人口が増えて「偽籍」が想定されたことなどが指摘される。
 調・庸についても、9世紀代には「違期(いご)・粗悪・未進」が目立った。つまり収納品を京へ運ぶ(運京)が遅れたり、粗悪品になったり、滞納されたりが頻発した。

 こうした事態に対処するため、10世紀代に国衙の運営体制が大きく変更された。それまでは[守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(もく)]と呼ばれる四等官(4人)が共同責任で任務に就いたが、これを改めて現地に赴任する最高位の者に権限と責任を集中させた。その者が任期4年の終了時に税の収公に実績を上げたかどうかを厳しくチェックし、規定どおり完納されれば、残りを自分の物にできることとした。
 そのころ国司は現地には赴かず在京して「遙任」することが増えており、代わって赴任する最高位の者を「受領」と呼んだ。その者の任期満了時に「庸調惣返抄」「雑米返抄」など、貢納物を所定官署に納め得たことを示す返抄(領収書)を提出させた。初めは前任者の未納分も義務づけたが、さすがにそれは無理だったので、888年からは自らの任期4年分でいいことにした。検分する必要書類は、年々増えた。
 そのうえで公卿全員が出席する「受領功過定(ずりょうこうかさだめ)」の会議を開き、その席で「功」か「無過」と判定されないと、前職の称号が取り消されず、次の任官を得られないという罰を受けた。ただし貢納物を完済できれば、残りは受領のものにできるという役得を手中にできる。

 徴税体制も、実態に応じた変更がなされた。それまでは田畠の耕作人を把握して課役する人頭税の方式であったが、遅くとも10世紀前半には土地(田畠)を把握し、それをもとに課税する方式に変わった。
 近接する一定範囲の田畠を「名(みょう)」という徴税単位にまとめ、堪百姓(たん・びゃくしょう;税負担に堪える百姓)とか、田堵(たと)とかと呼ぶ富農層に税の納入を請け負わせた。これを「負名(ふみょう)制」という。「名」の広さは広い場合で10~20町、平均2,3町であったとされる。
 口分田が配布されないから田畠は公田(公地)と呼ばれ「公田官物率法」が導入された。租・庸・調の税目に代わって、負名の請作面積に応じた官物(かんもつ、租・出挙・調の系列)と臨時雑役(りんじ・ぞうやく、庸・雑徭の系列)という税目に2大別され、詳細な運用は国ごとの受領に任された。臨時雑役は11世紀後半以降、公事と呼ばれるようになる。
 これとともに国衙による検田(土地調査)が強化され、とりわけ受領が赴任当初に行う検田は、任期中の収公額を左右するから厳しく行われた。乗馬する検田使が郡ごとに派遣されて「馬上帳」に記録し、まとめたものを「検田目録」といった。太政官符で免田とされた荘園にも立ち入ることもあったという。CIMG5309滝宮天満宮.JPG

 こうした地方行政の変革は、国司が「良吏」であった9世紀代の経験を踏まえて、立案されたという。菅原道真が讃岐国司であったのは886-890年で、帰京後に右大臣などを務めた(写真は讃岐・滝宮の天満宮)。紀貫之は、木材の産地である土佐に派遣されて930-935年に国司を務め、帰京後、木工権頭などを務めた。
 日本古代史が専門の坂上康俊氏は『摂関政治と地方社会』(吉川弘文館 2015)のなかで「受領制度と負名制の確立、これこそが延喜天暦の治から摂関政治の時代の人びとが実質的な恩恵を被った最大のもの」と書く。「延喜天暦(えんぎ・てんりゃく)の治」とは、平安中期の10世紀前半における醍醐・村上両天皇の治世を聖代視する呼称で、後世に天皇親政が行われた理想の時代とする思想が生まれた。
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